昭和44年2月14日 朝の御理解




 御理解第98節
『心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。 落ち着いて静かに願え。』

 神信心の定規であるところの心というのは、どういうようなことだろうか。徳も。自分の心を打ち見るとか、覗いて見る。自分の心がこのような状態ではおかげは受けられまいとか、こんな事では御心に添うまい、適うまい、とこう思う。
 ところが信心が進めば進むほど、自分の心を深刻に見、信心の浅い時には、別に自分は悪い事をしたり悪い心を持っていないと思うておる。ところが信心が段々出来てくると、なってくると自分の心というのをいよいよ深く見つめるようになる。そうすると自分の心の汚さというかね、心の見苦しさというのが感じられる。だから、そういう、そういうものではなさそうですね、信心の定規というものは。心が綺麗だとか綺麗でないとかと思うような心、それではないと思うですね。心は信心の定規と。自分で心が美しいと思うとりゃ、その定規が綺麗、正確だ、かというとそうじゃないことが分かる。
 信心を進めていく、いけばいくほど自分というのを、まあいうならば小さい、小さいその心の動きの一つでも心掛ける。いわゆる顕微鏡で眺めるように自分の心を見れば、いよいよ汚いものが沢山あるのが分かってくる。信心が薄い時やら無い時には、自分の心は美しいと思うとる。悪い事をしない、人に親切心もある。ね。
 ですから、あの、そういうような意味では、心は神信心の定規と。なら、定規ということは正確でなからなきゃならない。正確なこと定規のように。ここで申しますね、そういう正確な心ということではないと思うです。心は信心の定規と。そんなら私は、あの、どういうような心かと。私はこのような汚い人間である。私はこのようにつまらん私ですけれども、神様のおかげを頂かなければ立ち行かない私と。ね。その私は、あの、度合いだと思うですね、神信心の定規というのは。綺麗な心とか汚い心とかということじゃない、心は定規と仰る。神様のおかげを頂かなければ立ちゆかん私だという思い込みなんです。
 お伺いをする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願えと。とりわけ平気な心。ね。とりわけ平気な心。いわゆる平生心という。その平気な心というのが、ね、心が美しいから汚いからで定まるのじゃないということ。どんなに例えば、それが清らかな水であっても、さざ波立っておったんではお伺いは出来ません、ね、お伺いというのは。神様にお願いをする、お伺いをする、どう神様がそれに応えて下さるか。どげんでも応えて下さってあるのだけれども、心がさざ波がうっておるからうつらない訳です。ね。
 今日ここんところはもう、初めて今私が申しましておるところは初めて頂いたんですね。今までは、心は神信心の定規ということは、まあ何ですかね。だから綺麗な心と、はあ、自分にはこんな汚い心じゃから、もう狂った定規だとか、自分で自分の心が拝みたいごたる自分を発見して、はあこういう定規がある、もう真っ直ぐい定規だというふうなふうに頂いたんですけど。今日はそこんところをそうではないとこう、定規というものはそんなものじゃない。なぜかと言うと信心が進んでくりゃ進んでくるほど、なら定規が狂うてこなきゃならない。自分というものが汚さが分かってくるから。ね。
 心の隅々にこんな汚いものがあったと今まで気が付かなかったところにまで気が付いてくるんですから。ね。それで平生になろうというてもそれは無理だ。けれども平生になる道はね只ひとつ、それは神様をどこまで、ね、こちらはこれであっても神様をどこまで信頼するかということ。いわばその神様のおかげを頂かなければ、信頼申し上げるその神様のおかげを頂かなければ自分という人間は立ち行かないのだ、私の方の一家というものはです、神様のおかげを頂かなければ立ち行かない一家だという思い込みです。ね。
 ですから、例えば心が美しいとかね、汚いとかということじゃないです、関わり合いがないそれとは。だからどんなに浅ましい私であっても、神様のおかげを頂かなければ立ち行かん私だと、思い込んでおりますから心の中に平生心が持てるわけです。ね。
 どんなに一生懸命の信心が出来ておっても、はあよか信心だと言うておってもです、ほんとに神様のおかげを頂かなければ立ち行かんというものであったら決して信心は狂わないです。ね。その思い込みが強ければ狂われるはずがない。ところがです、その思い込みがただ一生懸命信心の稽古をさして頂いて、お話しを頂いて有り難い。お取次ぎを頂けばおかげが頂けて有り難い。ほんとに神様ちゃ有り難いということがです、だんだん分かってくるけれども、なら神様がいつもそう撫でたり擦ったりするようなおかげばっかり下さらない。ね。来る日も来る日も心が暗くなるような事が続くようなこともある。そうすると、いわゆる不信が生まれてくる。神様を信ずる心がだんだん無くなってくる。少なくなってくる。そして、日参りしよったつが、もう時々しかなくなって、終まいには信心してもせんでもあんまり大したことは変わらんと、いうような心さえ起きてきて不信心になっていくという人は沢山あるでしょうが。
 ところが、いかにも不信心のように見えておってもです、ね、しげしげとお広前にお引き寄せを頂かなくってもです、もう神様のおかげを頂かなければと立ち行かん私であり、もう立ち行かん私の生き方と、神様から手を外されたらもう駄目だと、というようなですね、あの、心の強い人がいる。
 私は昨日、十三日会に皆さんそれぞれ、ほんとに体験発表を聞かしてもらいましたが、最後に、締めくくりに、文男さん、あんたおかげ頂きよるって文男先生がお話しました。お話は何かとんちんかんなようなお話でしたけれども、たった一言ですね、その、言うております事が、その普通はやっぱ心が乱れておると、こういうわけなんです。けれども何か事っということにぶつかった時には心が定まるちゅうとです。ね。度胸が据わるちゅうとです。ね。
 ある人が発表してました。なかなかいい話でした。ね。さあ今日は自分の誕生日だというて皆がお祝いをしてくれた。さあ、おビールも買うてきた。さあ、今から、なら、そのまあささやかな誕生のお祝いをしようかと言よるところへ先生から電話がかかってきた。それが胸がどぎまぎするようなことであった。さあどっこい御飯がいけん。ビールが喉を干さないと。今が今ままで、あんなに有り難いなあ、有り難いなあ、自分くらいな者に子供達がこんなにしてくれてまで、神様のおかげで親先生のおかげでと、お参りをしてきて帰って御理解を頂いて有り難いなあと思うておるところへもってきて、そういう例えば、まあいうなら困ったニュースが入ってきたら、もう心が落ち着かない。それこそお祝いをしてくれておるおビールが喉を干さないと、こういうのである。それはまあ、そげな実感だと思うんです。そこで、はあ自分の頂いておる有り難いとか、もったいないとか言うておるのは、この程度の事だと分からして頂いたと。それで実は今日も夕方から会合があるんですけれども、それ前にどうでも十三日会におかげを頂いて、腹を決めて帰らして頂きたいと言うて発表しておられます。ね。
 そういう人が、まあほとんどであり多い中にです、ね、例えばそういう事に直面した時には腹が決まる。そういう時に普通は波立っておるかのようにあるけれどもです、いよいよの時にはどん腹が決まる。
 それはもう椛目時代ですから、二・三年も前だったでしょうか、もう月次祭を仕えようと思うておる所へけたたましく電話が掛かってきた。文男先生電話ですよと。ところがすぐ隣の家が、まあ普請中だったそうですけれども「火事だ」と言ってきた。こらもうそこが焼けるなら絶対焼ける。「すぐ帰ってきてくれ」とこう言うのである。そういう時に、先生只今こういうような電話が掛かってきましたから、御無礼、今からすぐ帰らして頂きますと言や、「ああそうね、なら急いで帰りなさい」と言うたに違いはない。
 ところが「先生、今こうして電話が掛かって参りましたから、どうさして頂きましょうか」と、こう言う。ここんにきが私は、お伺いをする時には、平気な心なからなければならんというのはそれなんです。もうあなた、紙一重のごったっところですからね、あの、実際に行って見ると。しかもあそこは、こう、何ですかね、もう非常に自動車が入れにくい位に、あの、組んだ所です。「只今電話が掛かってきました」と。「隣が火事起こしとります」と。「女子供ばかりですから、とにかくびっくりしとると思いますから、とにかく帰らして頂きます」と。「はあ、なら帰りなさい、お願いさして頂きよるけんで」じゃろうとこう思うのですけれど、ね。
 そういう時にです、「どうさして頂こうか」と、こう言うのです。だから「文男さん、帰らんでよかばい」と、私は申しました。ね。腹が決まった。もう当たり前。それこそ御祭りの作法ひとつ間違えることもなしに、その、御祭りを奉仕さして頂いて帰った。まあ、これは余談、今日の話とは別ですけれどもね。帰らして頂いたら火事は鎮まっとった。さあもうそれこそ女子供達は、もう逃げ散らかしておるもんじゃから、家内も子供も何処かにか連れて行ってもろうとるわけ、子供達。子供が居らん。それから、あっちこっちから預かっていってもらっとるとが帰ってきとる。嫁ごも、もう家の事だんじゃなか、逃げて何にも知らん。家は閉めたまま逃げたんです。隣なもんじゃから。ね。それで近所の人達が「秋永さん、秋永さん、開けて中の人を出してあげましょう」と言うて来るけど、閉まっとるげなもんじゃけん近所の人達もどうこんしようがない。その時に、大橋の方から、それからあの、光雄さんの方の里、もう親戚中の方が心配してから大騒動しておる。 
 ところが、火事が鎮まってから、文男さんが帰ってから思わして頂いた事なんです。「はあ、あの時にはおよたれまわって帰って品物どん出しとったら、もうそれこそ濡れっしもう垂れしなきゃならん、ぽんぽん水がかかりますから。おかげで閉めとったおかげでほんとに物ひとつ濡らさなかった。物ひとつ紛失しなかった。もう、近所はもう家財道具でも取られんくらいに出していた、他は。ね。そしてから、もうこんどは隣は焼けたもんじゃけん今度はもう、あくる日はもう、お見舞い品の山ですたい。こらもう時々焼けたがよかちゅうごと(笑)、ほんなこっですよ。なるほど、もうびっくりしとりますたい子供やら家内達。
 けれども、それこそ子供、女は皆逃げ散らかして、閉めてからもう何一つ出しとらん。おかげで全焼しとりましたけれどもね。こちらにはぜんぜん被害がなかった。これはまあ、その後のおかげですけれども。ね。
 私はそういう時にですね、あの、ままよという心出さなきゃ、お伺いは出来ないと思うんです、実際。そうでしょうが。先生がどげん言いなさるか分からん。それをもう、いかにも帰らにゃならんごたるふうにですよ、私がなら「はよ帰りなさい!」ち言わにゃならんごたるふうに前置きしておいてお伺いする人があるです。なら、そういう時には私は帰りなさいち言うに違いない。こげんですけん、あげんですけんち言うて周囲をまず、状態を話しといてですね、そしてそうせにゃ、そう答えんにおられんごたるふうに、いわゆるこちらが答えを出してやらんばっかりにしてからお伺いをする人がある。おかしいですね。平生心じゃないからですよ。ね。
 お伺いをする時には、とりわけ平気でなからなければならん。もうそれこそ無心でなからなければならん。不思議です、お伺いをする時にですね、その後先の事をいろいろ言われえるとですね、それが私には人間心ですーっと入ってくるんです。「はあそうですか」、
「そういうことですか」、「そら困るですね」と言うて、私がいっぺんで人間心で 計算するようになるです。ね。
 ですからもうほんとに白紙です。ね。ほんとに無心でお伺いしなければならない。ならその無心というのがです、私は定規、正確な定規だとこう思うのです。ね。ならその正確な定規というのはどういう事かというとです、もうどちらになったところで、神様のおかげを頂かなければ立ち行かない私だという思い込みが強ければ強いほどそういう事になってくるのではないでしょうか。ね。
 例えば、焼けようが焼けまいが、ね、よし丸焼けになろうがです、そこからもう信心しよったらこげなことなったけんそらすると、そげん時には信心な止むるぞといったようなものじゃなくて、そうなればなるほど、あなたのおかげを頂かなければ立ち行かん私だという思い込みが強い。それで、そういう意味で私は思うのです、ここで先生と呼ばれる人達。やはりこれは人が呼ぶのじゃない、神様が読んで下さる。神様が下さるひとつの格なんです。やっぱり文男さん達が文男先生と言うて、いつの間にかそう言うようになったが、ね。
 昨日の発表を聞かして頂きながら思う、いよいよの時には腹が据わります。いよいよの時には、すぐ私は、すぐ惚けられる性格を持っていると言うて昨日発表してました。ね。日頃いかにも惚けとるようであって、いよいよの時惚けきらん。ね。これでは私は、今日の神信心の定規と仰る定規が不正確ということなんです。ね。お伺いをする時には、とりわけ平気でなければならん。ね。落ち着いて静かに願え。落ち着いて静かに願えれる信心を頂きたい。ね。もうこの氏子は狂わん。神様はそう見なさるに違いはない。ね。それはなるほど、今のとおりで良いという事じゃないぞと。ね。
 例えば、なら今の文男先生が出ましたから、文男さんの時にも今は確かに目の粗いこと目の粗いこと。ね。けっしてそげなこって良かとはさらさら思わない。ね。けれどもその、神様のおかげを頂かなければ立ち行かん自分だ、いよいよの時には神様に縋らなければできない自分だという思い込みが強いという意味合いにおいては、なるほど先生と言われるがとあるなと私は昨日思うた。ね。
 自分の人智、自分の知恵、力で大抵のことは、こうやって、そのまあ、自分で人間心を旺盛に使うてやる。神様にお願いしてから、まあしよるとじゃけれどもそうするといったような生き方からはですね、いよいよの時に心が定規が乱れる。ね。いわゆる平常心、平気な心になろうと思うてもなれない。
 昨日、十三日会の後でした、土居の久富さんが話しておられましたが、えー、昨夜昨日のこと、昨夜、今あの小さい単車でお参りして見えられます。ほんとに椛目時代に歩いて、歩いて参りゃ、まあいうなら百のおかげ。自転車で参りゃ五十のおかげ。まあそれで自動車どん乗せてもろうたら、またそのおかげが減るというような意味の御理解を頂いたことがありますが、もう私は、もうおそらく一生自転車でお参りするだろうと当時いうておられた。ところが最近、自転車が故障したことから、ほんと自分は免許も何も持たんけれども子供の単車を借って乗ってるところがなかなか面白か。やっぱ自分で運転が出来るわけです。ですから自転車は馬鹿らしゅうなってきた。ね。それが心に引っ掛かりながらその、単車乗って来よったけれども、その晩はお参りする時に、神様最近こうやって単車ばかりでお参りさして頂きますが、帰る時久富先生と一緒に帰ることもできんだから。片一方は自転車ですから。そいけんほんとうは神様どうでしょうか、単車に乗せて頂くのが御機感に適わないのじゃないだろうかと言うてお伺いをされたというのです。
 そしたら、神様からですね「自転車が良い」と(笑)。ところが自分の心はもう単車に決まっとるもんですからね。霊神様を礼拝する時に、また霊神様にまでまた伺うた。「今、神様にお伺い致しましたら自転車が良いとは言われるけれども、やはりあの、やっぱそうでしょうか」ち言うて。そしたらね、今度は御霊様の方で「そんなら、単車で行くがよかろう」と頂いた。ね。
 まあ、お許しいただいたもんですから、単車で見えたところが、ちょうど畑の中の藪のある所に行かれますもんで、そこんにきまで来た時に、もう引けども押せども動かんごとなってしまった。三十分間ぐらいこうやってやってみるけれども動かん。とうとうしゃあないもんですからそれを押して家に帰って、そしてその、蔵の中に入れちから、ちょいと扱うたらドッ ドッち起こるげな(笑)。ほんとに神様ばかりは…と言うて昨日話されたわけなんです。ね。まあ、お伺いがね、単車でよかろうか自転車でよかろうか、だからそれでいいようなもんですけれどもね。
 ほんとに今お前が言いよるじゃないか。自転車で参りゃこれこれ、歩いて参りゃこれだけと言われるくらいに、だから自分じゃ言い定めておるならばそら確かにそうですよ。ね。神様は自転車でよいと言うても、やっぱ心の中には単車で行きたい。行きたいけん、また繰り返しお願いをすると、そんならばというて言うて下さるような場合があります。ね。
 ですから、このへんのところも私はお伺いをする者の、この、その、信心というものがね、ただ簡単な事ではいけないというふうに感じます。いわゆる自分の方が神様が歩いていけ、と仰る「はい」と言えれる心なんです。自転車で行け、と仰る「はい」ということなんです。ね。そこを例えば、なら、分からして下さろうとする働きがです、ね、途中まで来ておるのにいっすい動かんようになった。一生懸命で押して帰った。家帰ったら動くようになった。そのへんの神様の働きの自由自在なことをね感じると同時にです、神様がそうしてでも本当な信心というかね、ほんとに神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだという思い込みを作らしてくださる働きが私どもの上にも様々に現れておるわけなんです。ね。
 そこをそこと気付かせて頂いていよいよ、私は、まあいうならばです、これはまあ私のことですけれども、私はもう小さい、もう小さい物心が付く頃からですね、もう神様のおかげを頂かなきゃ自分は駄目な人間だ、助からない人間だというその思い込みが非常に強かったです。もう学校行くようになったらもう、とにかく絶対神様のおかげを頂かなければ駄目だと、もうお商売をさして頂くようになってからでもそれは、いよいよ思いは募るばっかりでした。それだけ、はあほんとに自分という人間は弱い人間だな、自分という人間は、まあだらしがないなあと、神様にそういうふうに思いをですね思わして頂くことが自分で自分がふがいないような思いがする時代があった。「ほんなこてもう神様てんなんてん言わずに自分の自力でいっちょ本気でやってみらんか」と、自分で自分の心に言いたいような気持ちがするように歯痒い思いをする事もあったです。
 けれども、私はやっぱり神様のおかげ頂かなきゃ、もう立ち行かんもんだという思い込みが強い。だからよく若い人達はそういうことをね、やるだけやって、そして出来んところを神様に、ね、そうやっていくことが如何にもその青年なら青年で、若者なら若者の行き方のように考えておる人がおります。それは間違いです。ね。自分の無力さかげんといったようなものが分かれば分かるほどですけれども、その、神様のおかげを頂かなければ自分は助からないんだ、立ち行かないんだというその思い込みがです、ね、いよいよの時に、私はいよいよの時に神様、と心が定まる。おかげが頂かれる、というふうに思うのです。
 心が神信心の定規ということを、これはいろいろに頂いてもいいでしょう。今まで様々に頂いてまいりました。でも今日はそこんところを、ただ心が美しいとか、ね、清らかであるというようなことが定規にはならない。ね。その証拠には、信心を進めていけば行くほどに自分のような汚いものがあるじゃろうかの自覚に立つじゃないか。そうすると定規はいつも狂っとるということになるのです。ね。例えそれが泥水のような水であってもです、ね、平生な心、さざ波が立たなかったなら、そこに影が映るように、どんなに清らかな水であっても、さざ波立っておったんではもう影が映らないようにね、おかげというものはそういうものではない。信心の定規というのはそうではない。ね。
 神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという思い込み。いわば、神様がもうあの氏子は狂わんと、こう思うて下さるその心なんです。ね。その心が、私は今日は定規だというふうに申しました。ね。そこんところに、例えばお伺いをする時にはと、私はいわば平気な心、平生心ね。もう例えばそこには全然思惑の入らない、ね。右左は神様にお任せしてのお伺いができる。そこから今日は文男さんを例をとってお話をしましたがね。結果においてはそういうおかげになってくるということが見えます。  どうぞ。
                                                              入力者  末永 清和